忠臣蔵ゆかりの地

永代橋を皇居側から渡り左に折れ、少し歩いた右側にチェーンで
囲まれた、黒い石の石碑があります。
この石碑は江戸のお味噌で有名なちくま味噌の敷地にある記念と
して据えられた物です。それは忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士が
討ち入りの後、乳熊屋(現在のちくま味噌)に立ち寄って休息を
取った記念の碑なのです。この休息後に高輪泉岳寺に四十七士は
向かいました。時は元禄十五年十二月十四日です。

三百年前に討ち入りをした赤穂四十七士

大石内蔵助良雄 吉田忠左衛門兼亮 原惣右衛門元辰 片岡源五右衛門高房

間瀬久太夫正明 小野寺十内秀和 大石主税良金 礒貝十郎左衛門正久

堀部弥兵衛金丸 近松勘六行重 富森助右衛門 潮田又之丞高教

堀部安兵衛武庸 赤埴源蔵重賢 奥田孫太夫重盛 矢田五郎右衛門助武

大石瀬左衛門信清 早水藤左衛門満堯 間喜兵衛光延 中村勘助正辰

菅谷半之丞政利 不破数右衛門正種 千馬三郎兵衛光忠 木村岡右衛門貞行

岡野金右衛門包秀 吉田沢右衛門兼定 貝賀弥左衛門友信 大高源五忠雄

岡島八十右衛門常樹 武林唯七隆重 倉橋伝助武幸 村松喜兵衛秀直

杉野十平次次房 勝田新左衛門武堯 前原伊助宗房 間瀬孫九郎正辰

小野寺幸右衛門秀富 間十次郎光興 奥田貞右衛門行高 矢頭右衛門七教兼

村松三太夫高直 神崎与五郎則休 茅野和助常成 横川勘平宗利

間新六光風 三村次郎左衛門包常 寺坂吉右衛門信行

赤穂四十七士の休息の地の碑

永代橋2002年10月撮影

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赤穂四十七士とちくま

乳熊屋の初代作兵衛は風流の道を嗜み宝井其角に師事し、赤穂浪士の一人大高源吾とは俳諧の友であった。此の誼みで芽出度く本懐を遂げ泉岳寺への引上の途路彼等が永代橋に差し掛かるや一行を店に招じいれ、拾度上棟の日でもあったので甘酒粥を振る舞って労を撈ったのである。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残して行った。これが大評判となり江戸の名所の一つになった。


勝 海 舟とちくま

勝 海舟
時代の新しい流れの中で、一代先
を読んで行こうと言う作兵衛の精神
は今日も受け継がれています。

勝海舟は文政六年二月十一日、本所亀沢町に生まれ二十四才の時赤坂田町に居を移してゐる。彼の父小吉は乳熊屋の附近油堀の生まれであり何かと附合が多かった事で多分海舟と竹口喜左衛門信義との接近も自然と出来たものと考えられる。信義は松前の海産物問屋渋田利左衛門、灘の酒造家嘉納治右衛門と共に勝麟太郎の後継者であった。
咸臨丸で渡米の写真の手にせる脇差しは当家より贈ったものであり、何かと援助を惜しまなかった。反面海舟より常に知識を受けてゐる。嘉永より安政に亘り頻繁に往来の記録あり書翰に依っても当時の世状を知る事が出来る。

西郷隆盛とちくま

明治末期乳熊屋の隠居番頭越山老人の話によると江戸の末期のころと思はれる、
当時西郷南洲翁乳熊屋の寮(深川材木町現在福住町二丁目)へ時々来れれて体を
慰めて居られた。たまたま外出の時に差し出した袴を着けたら少し長かったので、それを板の上で定木をあて小刀で袴のすそを切り取ってそのまま出て行かれた。 いかにも西郷さんらしい翁の少さい事にこだわらない性格がこう云ふ面にもあらわれ居ると言うものです。

(十六代が造った味噌)

昭和四十ニ年 六月

十六代 竹口作兵衛 記より抜粋