伊勢国乳熊郷(三重県松坂市中万町)の竹口作兵衛義道は慶安年間(一六四八年―五一年)に江戸に進出、日本橋に塗物店を営み、作兵衛勝義(後、通称を喜左衛門と改む)が元禄初年(一六八八年)に深川永代橋際に味噌醸造を始め、乳熊屋作兵衛門商店としたが、ちくま味噌の始まりであります。

延享二年 (一七四五年)四月二十五日喜左衛門松方が江戸南茅場町に伊勢屋の屋号で米穀店を開き、通称、伊勢喜と言った。伊勢喜は更に雑穀、回船問屋、両替商を営んだのであります。

文政十二年の大火、安政の大地震、幕末、明治維新、大正大震災と歴史の波にもまれながらも、江戸から東京へ変遷と共に発展を続け昭和六年より十年に掛けて、大震災の経験を基として近代的の三階鉄筋コンクリートの工場を建て販路は東海道より北海道に迄及ぶ様になりました。


大東亜戦争で味噌の統制、爆撃敗戦に依る潰滅的打撃を受けながらも着実に業績を挙げ今日に至っているのであります。又、昭和三十八年二月一日、乳熊屋発祥の地深川佐賀町一丁目四番地永代橋際に些かなりとも世間様の御恩に報いんと愚考の末、住宅問題の一助にと決心致し大東京、特に江東区地区の低地の住宅は立体的であるべきと思い、日本住宅公団と提携、乳熊ビルを建築すると共に赤穂浪士休息の記念碑を建立致しました。江戸の歴史とくちまとの連がりの数カットをご紹介致したいと存じます。

赤穂四十七士とちくま

乳熊屋の初代作兵衛は風流の道を嗜み宝井其角に師事し、赤穂浪士の一人大高源吾とは俳諧の友であった。此の誼みで芽出度く本懐を遂げ泉岳寺への引上の途路彼等が永代橋に差し掛かるや一行を店に招じいれ、拾度上棟の日でもあったので甘酒粥を振る舞って労を撈ったのである。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残して行った。これが大評判となり江戸の名所の一つになった。


佐藤信淵とちくま

軍学者であり農政経済の大家でもある佐藤信淵が深川八幡の境内の仮隅に講席をひらいてゐた時、喜左衛門直兄の大番頭である大川素六(後、中西七郎兵衛速雄)は熱心に聴講、此の縁で彼は医者として竹口の家に出入りするようになった。
天保五年夏(一八三四年)竹口の家が上総国君津郡久保田に荒蕪地を求め農場を開くことに当たり、六十六才の信淵は顧問として同行した。素六は晩年この農場守として、弘化三年九月七十六才の天寿を全うした。素六の功績を讃へた碑は現存する。
天保十年十二月信淵六十九才の時、伊勢参宮の帰途四月十日、中方の竹口本宅
を訪れてゐる。
天保八年十二月信淵七十一才の時、高野長英の夢物語に基き「夢の夢物語」を執筆して時世を論じ、これが幕府の忌諱に触れ(藩社の厄)捕史の目を数十日茅場町の直兄の家に隠はれた。天保十一年四月十七日、丹波綾部藩九鬼候の招きに依り丹波へ赴く途次、次男祐三少年を伴ひ再び中万の本宅を訪れてゐる。彼は嘉永三年一月六日八十二才で死に浅草森下町松応寺に葬られた。

勝 海 舟とちくま

勝 海舟
時代の新しい流れの中で、一代先
を読んで行こうと言う作兵衛の精神
は今日も受け継がれています。

勝海舟は文政六年二月十一日、本所亀沢町に生まれ二十四才の時赤坂田町に居を移してゐる。彼の父小吉は乳熊屋の附近油堀の生まれであり何かと附合が多かった事で多分海舟と竹口喜左衛門信義との接近も自然と出来たものと考えられる。信義は松前の海産物問屋渋田利左衛門、灘の酒造家嘉納治右衛門と共に勝麟太郎の後継者であった。
咸臨丸で渡米の写真の手にせる脇差しは当家より贈ったものであり、何かと援助を惜しまなかった。反面海舟より常に知識を受けてゐる。嘉永より安政に亘り頻繁に往来の記録あり書翰に依っても当時の世状を知る事が出来る。

西郷隆盛とちくま

明治末期乳熊屋の隠居番頭越山老人の話によると江戸の末期のころと思はれる、
当時西郷南洲翁乳熊屋の寮(深川材木町現在福住町二丁目)へ時々来れれて体を
慰めて居られた。たまたま外出の時に差し出した袴を着けたら少し長かったので、それを板の上で定木をあて小刀で袴のすそを切り取ってそのまま出て行かれた。 いかにも西郷さんらしい翁の少さい事にこだわらない性格がこう云ふ面にもあらわれ居ると言うものです。

ヘボン先生とちくま

ヘボン式ローマ字のヘボン先生とちくまとは又次の様な面白い繋がりがある。ヘボン先生の家に医術見習ひの為に書生をしてゐた越前の人、本多貞次郎(三十三才)の案内で喜左衛門信義は妻のぶ、伜虎太郎、子供泰助、手代茂吉、供八助を従れ万延二年(一八六一年)正月十三日、神奈川の成仏寺にヘボン先生を訪れた。
目的は横浜に来てゐる外商で信用して取引できる人を紹介して貰ふためであった。 ヘボン先生の許に着くとヘボン婦人の部屋で色々珍しいものをみせてもらひ、やがてヘボン先生の部屋に案内され、土産として日本紙、硯、急須を先生に、赤絵の急須を夫人に呈上した。 先生の部屋には子供が四人遊んで居た。五ッから十才までの子で琴(ビアノ)を調べ何か歌を唄って聞かせてくれた。貞次郎の案内で一同裏隣に居るアメリカ教主ゴーブルを訪れた。夫人が喜んで迎へ惣領の娘(二十一 − 二)が仕掛 (ミシン)で何か縫ふのを見せてくれたので一同は其の仕掛の巧妙なのに驚き何時迄も見物した。 先にヘボン先生に日本紙と硯を呈上するとアリガトウと言って墨を磨る真似をしデケル デケルと言ったので信義はヨロシク ヨロシクと言ってうなずいて見せた。
其処へヘボン先生も見えられ、共に教主ブラウンを訪ねた。五人の子供に足袋
と駒下駄を贈るとそれを履いて部屋の中をカタン カタンと飛廻り跳廻る。ブラウンの娘の児に足袋を指して名を聞くとタビ、下駄を指すとゲタ、可愛こと限りなし。 珍しい御菓子が出たが信義は歯が悪いので口にしなかった。しきりに進めるので其旨話すと夫人は直ぐに厨に馳せて軟い菓子一皿を持って来られたので、デケマスと言って口にした。ブラウンがヤソの本をくれたが、これは御禁制だから忘れたふりをして帰る時椅子の上に残して来た。 翌十六日はドンタクで用談が出来ないから一寸ヘボン先生と打合わせした後、新開地横浜に行き諸見物して帰る。 十七日ヘボン先生夫妻の手舟に同乗して岩亀楼を見物、先生は二十三番館メスト・ロースに信義を紹介した後神奈川へ帰られ、一行は製茶長屋を見学した。 茶選女工百人ばかり支那人の男工二百人ほど。 支那人はブリキ板を張った木箱の中へ再製茶を踏込んでゐる。 この茶は駿河産のもので信義は見本として箱の茶を少しづつ貰った。 箱には <竹の印があった。
信義は更にメスト・ボーンと言ふ人の宿を訪うた。 彼は学者で世界廻国の為横浜に立寄り滞在中の由、此処にドクトル・セメーズが同宿してゐた。セメーズは正しくはシモンズ(B ・SIMMONS)で宣教医、一八五九年に横浜に来り病院を開き、虫下し薬を調剤し、此の薬を世間ではセメン円と称した。
翌十八日朝から曇った寒い日だった。再びメスト・ローズに会ひ商談し、時化模様の海を神奈川に帰りヘボン先生を礼に訪れる。先生は此の寒い而も雨の中を日課の散歩に出られ留守、暫くして帰られる。礼を述べると「ミナミナスミマシタカ、ローズハシンジツナ人デス」「皆良いでした」「ワタシモヨロコビマス竹口サンコチラへ」と先生の部屋に案内され、ストーブの前の椅子に腰をおろし永いこと咄をした。「ワタシノ家内の兄弟ガネウヨーカニアリマス。日本セトモノウリタイト言フテオリマス」又言ふ「日本ノイロイロノ書物ガホシイ、オセワクダサイ」信義は江戸に帰れば書物はすぐ送ると約束した。別れる時私の家内が奥様にアメリカの縫物を習いたいと言ったら承諾してくれたので翌十九日朝から家内を伴ひ先生の夫人にミシンの使ひ方を詳しく教へて貰った。帰る時先生は右手を出して握手を求めた。信義の手記に「これぞ彼国の朋友になりたるしるしぞ」とある。 信義は江戸に帰り早速次の書を求め正月二十二日と二月二十八日にヘボン先生へ送った 三字経一部。孝経一部。佐藤信淵経済要録三冊本。行書累簒十二冊本。人国記二冊本。(ヘボンもブラウンも一八四〇年代に中国に居たから中国語の素養は充分あり、漢文の書物は極く楽によめたらしい)結局これを記にして兄、竹川竹斎と共に信義は伊勢茶、正油及び射和万古の
輸出事業を大々的に始めたが残念ながら時期尚早に過ぎ、失敗に終わってゐる。ヘボン先生より送られた密柑(払手柑)を郷里中万の庭に植へ、ヘボンの蜜柑と言はれてきたが伊勢湾颱風で此の老木も折れ、記念樹を失った事は残念の至りである。

歌舞伎とちくま

明治十八年十一月千歳座初演、河竹黙阿弥作、「四千両小判梅葉」の序幕第二場、四谷見附外御堀端の場で。九助 ごまぢゃねえが、お前の味噌は、めっほうけえ味がよくついてゐる。倉蔵 代物がよくなけりゃアどうしても売れねえから、永代の乳熊までわざわ
ざおれが買ひに行くのだ。伝次 道理で味がいゝと思った。

味噌は乳熊にかぎるのう。九助 自身に乳熊へ買ひにゆくとは…・

と組んで御金蔵を破りまんまと四千両を盗み出したが、遂に両人とも捕らえられ天馬町の大牢に入れられ死罪になる筋であるが天馬町の牢内の模様をそっくり写したもので大評判を呼び、富蔵に扮した菊五郎、藤十郎に扮した九蔵とも良く、当時の話題をさらひ遂に吉左衛門、六台目菊五郎の当たり狂言となり、最近では幸四郎、勘三郎または海老蔵、松録のコンビでしばしば上演されてゐる。黙阿弥が何でちくま味噌の名を入れたのかは明らかでないが当時舞台に写実性を持たせる意味でちくま味噌の名前を使ったのではないだろうか。

以上は竹口、竹川家の記録より松坂市射和の山崎宇治先生に纏めて戴いた「伊勢店持竹口直兄と信義」を基とし、本庄栄次郎著「江戸明治時代の経済学者」 豊島寛彰著 「隅田川とその両岸」 高谷道男著 「ヘボン」 河竹繁俊著「河竹黙阿弥」 河竹繁俊校訂 「黙阿弥名作戦」 子母沢寛著 「父子鷹」「おとこ鷹」を参考としました。

昭和四十ニ年 六月

十六代 竹口作兵衛